壷銭とは酒屋に対する課税のことで、酒造役や酒壷銭とも呼ばれます。
酒屋に対する課税としては最古のものです。
醸造に使用する壷数に応じて課税基準を定めたことからこの名称になったとされます。
日本全国で酒屋が広まったのは鎌倉時代中期からです。
鎌倉幕府は酒が社会に及ぼす悪影響を防ぐため沽酒の禁を出して取り締まりました。
京都の朝廷は公領からの収入が減少したので、代わりに酒屋の営業を許可して課税することになります。
1312年から1317年までの正和年間における新日吉社の造影費用のため、洛中などの酒屋に壷銭を課したのが最古の記録です。
造酒司は酒や醴(甘酒)、酢などの醸造を司っていました。
四等官のうち造酒正を務める押小路家が酒壷の徴収を担当するようになります。
1322年以後、後醍醐天皇は壷役の通常課税化を図りました。建武の新政が始まると、押小路家の権限を取り上げようとします。
しかし政権が崩壊して失敗し押小路家が復権します。
1362年から1368年までの貞治年間の北朝において、年間200貫を朝廷に収めることを条件に、押小路家は酒麹売課役として徴税権が与えられました。
造酒正は警察組織である検非違使を動員して徴税を強行するようになります。
そのため酒屋の座を支配下に置いていた延暦寺などの有力寺院との対立が生じました。
鎌倉幕府は酒屋の禁止を続け禁止対象となる酒屋への課税も否定的でしたが、室町幕府は軍事力を背景に造酒正と有力寺院の対立に介入して京都の酒屋から酒屋役を徴収するようになります。
財政基盤の弱さを補うことが目的でした。
定期的な壷銭は年に12回徴収するのが原則です。
その他に臨時課税が行われます。徴収に先立ち壷数と営業状況の調査が行われました。
調査結果によって本役と半役(半公事)に分けられます。
半役は本役の半額です。
次第に京都だけでなく地方でも壷銭が徴収されるようになりました。
酒屋役は室町幕府によって京都を中心とした酒屋に課税された税金です。
鎌倉時代中期以降は日本全国に酒屋が普及しました。
酒屋の営業は基本的に鎌倉幕府によって禁止されます。
しかし京都は延暦寺など有力寺社や朝廷の影響下にあったため、鎌倉幕府による酒屋禁止が徹底されていませんでした。
京都の酒屋は延暦寺などの影響下にあり、朝廷も壷銭などの形で臨時に課税を行う代わりとして酒屋営業を認めます。
後醍醐天皇が即位した後の1322年頃から壷銭を通常課税する議論が行われるようになります。
延暦寺などの反対があり、造酒正による酒屋への通常課税が行われるようになったのは南北朝時代に入ってからです。
ただし延暦寺などの支援を受けて課税を避ける酒屋も見られ、朝廷と有力寺社の対立が続きました。
室町幕府の主な財源は御料所などからの収入です。
しかし全国的な内乱によって財政状況が悪化します。
室町幕府の財政状況が悪化した主な原因は以下のようなものです。
年貢輸送が困難になったこと。
南朝に領地を占領されたこと。
収入を自軍への恩賞に使う必要があったこと。
室町幕府は収入の減少を解決するため酒屋に課税しようとします。
幕府による課税については朝廷の造酒正や延暦寺などの寺社も強く反対しました。
当時将軍だった足利義満は強力な軍事力を維持しており、朝廷や幕府に圧力をかけます。
足利義満は酒屋と金融業者に課税して収入の減少を補おうとしました。
室町幕府は1393年に「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という法令を発布します。
この法令によって延暦寺などの権益が否定され、造酒正による課税は最低限に制限されました。
酒屋と土倉は年間6000貫を幕府に納める代わりに、その他の課税が基本的に免除されることになります。
土倉とは鎌倉時代から室町時代の金融業者です。
現代の質屋と同様に物品を質草として預かり、質草に相当する金銭を高利で貸与しました。
課税対象とされたのは酒壺が10壷以上の酒屋だったと考えられています。
様々な記録から酒壺ごとに100文が課税されたと考えられており、さらに大きな行事や造影があれば臨時の税が課税されました。
当初は幕府が直接徴収していましたが、後に有力な酒屋を納銭方として数十軒単位で酒屋役を徴収させるようになります。
室町時代後期以降は請酒と呼ばれる小売専門の酒屋が生まれ、地方からも名酒が流入するようになりました。
幕府はこれらに対しても課税を行っています。このような課税制度は織田信長の時代以降も継続されました。
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