明治時代の酒造業者の重い税負担と減税嘆願運動について

1881年には自由民権運動の指導者である植木枝盛を中心として酒税の減税嘆願運動が起きます。

酒造業者が大阪酒屋会議に招集されました。

大阪酒屋会議は明治時代の前期に造酒税の引き上げに抗議するため酒造業者が起こした全国的な運動です。

自由民権運動とも深い関わりがありました。

1877年の西南戦争の後で明治政府は財政難に陥ります。

また1873年に地租改正法が成立し、翌年から地租改正が着手されますが、農民から強い反対に遭っていました。そのような状況を打開するため明治政府は増税を画策します。

当時国内の工業で生産額が最も多かったのは酒造業でした。

日本酒はほとんどが国内で消費されていて関税の問題にもなりにくかったこともあり、度重なる増税が行われます。

1881年5月に高知県の酒造業者300名は、明治政府に対して造酒税引き下げを求める嘆願書を提出しました。

さらに高知県出身で自由民権運動の指導者だった植木枝盛に助力を求めます。

植木枝盛は自由党に参加した際に日本全国の酒造業者が増税の負担に悩んでいることを知りました。

1881年11月には翌年5月1日に大阪で酒屋会議を行い、減税と営業の自由を求める檄文を作成します。

これに対して明治政府は檄文に署名した島根県の小原鉄臣ら酒造業者を不応為罪で禁固刑にしました。

明治政府は自由党を刺激するのを恐れていたため、植木枝盛は不問とされています。

植木枝盛は会議の準備を継続しますが、4月27日に大阪府知事と大阪府警は会議の禁止を通達しました。

日本全国で酒造業者による集会の禁止命令が出され、会議代表団が次々と逮捕されています。

植木枝盛は、会議は禁止されたが代表に会うことは禁止されていないとして5月4日に船上で大阪入りできた代表と会合を持ちました。

さらに5月10日に京都の祇園で改めて2府15県代表の44名と会議を開催します。

禁固刑となった小原鉄臣を代表として「酒税軽減嘆願書」を起草し、政府に提出しました。

植木枝盛が中心となり「酒税軽減嘆願書」を政府に提出した事件は、大阪酒屋会議事件と呼ばれます。

この事件に対して政府は報復措置を兼ねて大増税を実施しました。

酒造業者は反発して多くが自由民権運動に参加します。

しかしその後松方財政によって米価が低迷し、日本酒の価格が下落して運動は停滞しました。

大増税による酒造業者の経営不振は税収を減少させたため、政府はどぶろくなどの自家醸造禁止などにより酒造業者を保護することになります。

当初は政府と酒造業者が対立していましたが、徐々に妥協策を探る方向に転換することになりました。

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