不応為罪とは

・昔の日本では裁判官の主観で人を裁くことができました

不応為条は律令法で定められた規定の1つで、法令に該当条文がない場合に裁判官が情理に基づいて処罰することを認めた条文です。

律令法は律令格式などの制定法と、平安時代に律令に基づいて成立した各種の慣習法を含みます。

645年の大化の改新以後に中央集権的国家が制定した公法体系のことです。

情理とは人情と道理、人間らしい感情を意味します。

不応為条は不応得為条とも呼ばれており、条文がない場合には裁判官の主観で裁くことができました。

757年に施行された養老律令には不応為条の規定があります。

法令に定めた罪に該当しなくても道徳や道理の観点から問題があると裁判官が判断すれば刑罰を科すことができました。

ただし不応為条で刑罰を科すことができたのは軽犯罪に限られ、刑罰は笞罪や杖罪など軽いものです。

日本の法律では不応為条が長年にわたって維持され、明治時代に制定された新律綱領と改定律例にも採用されています。

新律綱領と改定律例に基づいて処分された事件は不応為罪とも呼ばれます。

・取りやすいところに課税する酒税と消費税

造酒税の度重なる増税に苦しむ酒造業者を救うため、自由民権運動の指導者植木枝盛は1881年11月に翌年5月1日に大阪で全国規模の酒屋会議を招集して減税と営業の自由を求める内容の檄文を作成しました。

この檄文に署名した島根県の小原鉄臣ら酒造業者5名は不応為罪で禁固刑になっています。

しかし明治政府は植木枝盛が所属していた自由党を刺激したくなかったので、植木の容疑は不問としました。

現代に例えるのならば、全国の小売業者を集めて消費税の減税を求める会議を開こうとしたところ、呼応した小売業者を禁固刑にするようなものです。

明治政府はたまたま生産量が多く課税しやすかった日本酒に課税しましたが、現代の消費税も状況は似ています。

日本の国債の多くは日銀が購入しており、日本は海外に対する借金よりも債権の方が多い国です。

官僚は財政再建や高齢化による社会保険負担の増大などを消費税増税の理由にしているかもしれません。

しかし実際は天下り先を確保するため取りやすいところに課税したいというのが本音です。

政治家はまともな政策立案能力もなく足の引っ張り合いをしているだけなので、

官僚が自己保身に走るのは当然と言えます。

財政赤字を解消したいのならば、国の機関と地方自治体を削減すればよいだけです。

例えば都道府県を廃止して人口300万人程度の市を作り、必要に応じて区を設置すれば無駄な職員や地方議員を削減できます。

限界集落に税金を投入したところで過疎化が止まることはありません。

それならば都市部に人口を集中させて需要と雇用を生み出し、医療・福祉制度の効率化を図る方がマシです。

バブル崩壊以後の日本では度重なる消費税の増税によって経済が停滞し続けました。

国民は素人なのでまともな政権批判能力がありません。

政治家は政策立案能力がなく先生と呼ばれたいだけの目立ちたがり屋です。そもそもちやほやされたいだけなので、日本の現状や将来に興味はありません。

官僚は政治家が無能なので頑張って働いても無意味です。何かあったときに責任を取りたくありません。天下り先と予算を確保したいと考えています。

現状を維持するのに最も簡単なのは取りやすい消費税を増税することです。

今後も消費税が何度も増税され経済が停滞し続けて日本は貧困国になるでしょう。

若い世代の人たちは早めに海外脱出の準備をしていた方がよいかもしれません。

・不応為罪は1882年に廃止されました

不応為条と断罪無正条には裁判官が独断で処分を行う危険性がありますが、東洋の刑事法は絶対的法定刑の要素が強かったため弾力的な運用を可能とする効果もありました。

断罪無正条とは律令法の規定の1つで、法令に該当条文がない場合に類似する罪の類推適用を認めるものです。

絶対的法定刑とは刑種や刑期について裁量的な選択の余地がないもので、現代の刑法では外患誘致罪(刑法81条)があります。

外患誘致罪の法定刑は死刑のみで未遂罪も処罰されます。

死亡者が発生しなくても死刑となる可能性がありますが、法定減刑や酌量減軽は可能です。

法定減刑の事由には過剰防衛や心神耗弱などがあります。

不応為条と断罪無正条には法の欠缺を補充する機能と減刑機能があり、刑事法の弾力的運用を可能にするというメリットもりましたが、罪刑法定主義とは相容れない存在です。

欧米の刑事法において基本原則とされる罪刑法定主義は、犯罪を処罰するために法令で明確に罪と罰を定めておくことを求めます。

不応為条と断罪無正条は裁判官の裁量のみで刑事処分を認めた罪刑専断主義的な規定なので、罪刑法定主義では認められません。

1976年に法制学者の細川潤次郎らの意見で元老院において不応為条廃止が決議されました。

太政官と司法省は廃止の必要性を認めたものの法典整備まで決議内容の実施の引き延ばしを図ります。

元老院は新法制定と旧法改定を目的とする明治初期の立法機関です。

議案は天皇の命令として正院(太政官職制の最高機関)や後の内閣から下付されました。

緊急の場合は事後承認するだけになることもあり、権限は強くありません。

太政官はもともと日本の律令制において司法と行政、立法を司る最高機関でした。

長は太政大臣ですが、通常は左大臣と右大臣が長官の役割を担っています。

1968年6月11日に公布された政所体に基づいて設置された幕末から明治にかけての官寮名も太政官です。

1869年の官制改革では民部省以下6省を管轄することになり、後に長官として太政大臣が置かれます。

1885年に内閣制度が発足したため廃止されました。

刑法(明治13年太政官布告第36号)は1880年に公布され、現在の刑法と区別するため旧刑法と呼ばれています。

旧刑法は1882年に施行されたため、明治15年刑法とも呼ばれます。

元老院による不応為条廃止決議に対する回答は明治15年刑法の公布までなされませんでした。

さらに明治15年刑法には罪刑法定主義が盛り込まれ不応為条が廃止されることになったため、明治政府は決議を却下します。

1876年の不応為条廃止決議は1882年に旧刑法が施行されるまで延命されました。

不応為条が廃止された当初は裁判官が新しい法解釈に慣れておらず、無銭飲食や宿泊を詐欺罪と判断できず無罪判決を出す誤審が発生し大審院で原判決が破棄されるなどの混乱が起きています。

0 件のコメント:

コメントを投稿