国税収入の中で大きな割合を占める酒税

明治初期の日本では、最も生産量の多い商工業製品が酒類でした。

また酒類は当時の多くの人々にとって必需品です。

さらに日本製の酒類はほとんど国内で消費されていたので、増税をしても貿易摩擦になるようなことはありませんでした。

以上のような事情から度重なる制度改正と増税が行われることになります。

取りやすいところから取るという点は現代の消費税と同じ発想です。

明治初期の帝国議会は地主層出身の議員が多数派でした。

そのため帝国議会は地主たちの税負担増加につながる地租の増徴には反対でしたが、利害関係のあまりない酒造税の増徴には反対しなかったという事情もあります。

当初増税に対して酒造業者は反対したものの、政府は自家用酒造を禁止して醸造業者を保護し増税を認めさせます。

日露戦争が始まる1904年から1905年、1908年、1918年、1920年、1925年と酒税は増税されました。

さらに日中戦争が始まる1937年からは毎年増税されるようになります。

酒造税は1899年に地租を抜いて国税収入の第1位を占めました。

第一次世界大戦による好景気の時期を除いて、1935年に所得税に抜かれるまで第1位の地位を維持しています。

1902年には酒造税のみで国税収入の42%を占めました。

1940年に旧酒税法が施行されます。

旧酒税法は酒造税法の枠外に置かれ独自の課税体系があった、ビールや工業用アルコールなどの全酒類を統括したものです。

1944年には課税基準が造石高から庫出高に変更されます。

第二次世界大戦後の1950年には国税収入の18.5%を占めました。

その後は増税傾向が続いたものの他の産業が復興し、消費者の酒離れが進んだため地位が低下しつつあります。

1953年には現行の酒税法が施行されました。

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